2014年7月11日金曜日

伝道者の書を愉しむ

世の中、理不尽だらけである。世の中は腐っている。世の中おかしいという人は沢山いる。これらの主張は、完全に正しいと思う。実に世の中は理不尽で不公平で腐っている。だからといって自分も腐っていては、何も始まらない。智慧はそういう世の中をどう生き、その中で自分の楽しみをどうやって見出すかの道しるべである。いちいち世の中の理不尽に耳を傾け心を痛めたらキリがないし、うつ病にでもなって自殺するだろう。

世の中はそういうものと割り切って自分は自分の正しい道を歩めばよい。だれが何というと他人のいう事はあまり真剣に聴かない方が身のためだ。

「人の語ることばに、いちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。」

これは、昔から私が人生の師として崇める「伝道者[1]の書」の一節である。職場にはいろんなストレスがある。基本は上司や部下から来るストレスだが、頑張っても報われないという種類のストレスもある。そういうストレスは上司に怒られたときよりも、心をえぐる。頑張っても報われないのに、頑張らないと困る状況。誰にもその心境を分かってもらえない。そういう場合にぜひ一読してほしいものである。

「私はこの空しい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。」

「愚か者が非常に高い位につけられ富む者が低い席に着けられている」

世の中、自分がいくら頑張ってもなるようにしかならない。世が理不尽で不公平なのは当たり前で、時に空しい努力というのもある。これが空しさを感じる原因である。いわゆる諸行無常の境地である。さらに、なぜ人間の世界はこうまで理不尽で不平等で犯罪に満ちているのか、師は解く、

「同じ結末[2]がすべての人に来るという事、これは日の下で行われるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、それから後、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く」

「地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はだれひとりもいない」

これが世界の現実である。人との絆を大切にとか、頑張れば報われる、人は皆平等、と謳うのは、うわべの平和、見せかけの理想で自分を欺く偽善である。しかし、これに気づかない偽善者さんが多い。人の実存は、罪に喘ぐ存在である。その闇を素直に認めない限り、世の中の仕組みは理不尽のままである。

そういう世の中で、我々は成功を目指して何かを頑張る。仕事での成功をめざし、良い環境、良い収入を得ようともがく人もいる。しかし、わが師、伝道者はこれらも容赦なく切り捨てる

「実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。」

「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまたむなしく、風を追うようなものだ。」

素晴らしい教えである。あらゆる仕事の成功は、ずばり「人間同士のねたみ」の一言で言い尽くされるのである。世の中の成功、仕事の成功、何か他人より優れている業績というのは、聖書が言うには、結局、ねたみ、嫉妬なのである。そうしてみると、人間というのは意外と簡単な心理に基づいている。仕事人間がいかに空しいか。よく解る。成功を願い、成功を収める人の根底には優越感があり、その優越感の裏返しには、劣等感と妬みがあるのである。

ではどうしろと言うのだろうか。現代社会、時間を惜しみ仕事をテキパキこなす「出来る人」になることが美徳とされるこの世の中でどう生きろというのだろうか。わが師、伝道者曰く、

「競争は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。
「あなたは正しすぎてもいけない、知恵が有りすぎてもいけない、悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。一つをつかみ、一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両者を会得している」

すべてにおいて時がある。時を見極め、身の程を知り、わきまえることである。なぜなら、人間に絶対の善や正しさがあるわけがないからだ。その無知を素直に認め、神を恐れ、肩の力を抜いて、流れにゆだねることである。そして、中庸でいることである。人に絶対の善を見極める力があるだろうか?

「誰が知ろうか、空しいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。誰が人に告げられようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを。」

人が善と思って何か善行を行ったつもりでいても、それはおこがましいのである。

「空の空、すべては空、日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の利益になろう。」

実に、人生は空しいと解く。では、こんなに空しい人生のなかで一体、何の楽しみがあるというのか。それではあまりにも空しいのではないだろうか。伝道者はこう答える。

「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、幸せを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神は全ての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」

「私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ」

「日の下であなたに与えられた空しい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。」

日びの何気ない生活のなかで、小さな喜びと惠を感じること。家族を愛し、よく食べよく飲むこと。これにまさる幸せは無いということ。仕事の労苦は楽しむためのものである。決して、仕事のために生活を犠牲にすべきではない。そして、若い人には、こう薦める。

「若者よ。いまの内に楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事に於いて、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」

ああ、伝道者の書は、巷の低俗な自己啓発の書物とは次元が違う。一生、愉しむ神の智慧である。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。[4]」


[1]伝道者とは、「コヘレト」とも呼ばれる。また、「知恵者」とも呼ばれる。一説には、ソロモン王のことを指すと考えられているが歴史的検証は無い。歴代誌などでソロモンが神から「知恵」を授かったという話と、コヘレト自身がこの書において知恵を得ようとしたと語っている部分が一致する。また随所に、相当身分が高い年老いた男性であることを伺わせる記述がされている。ちなみに、イエスは、ソロモンの栄光を野の花ほどでもなかったと評した。
[2]「同じ結果」とは死のことであり、善人も悪人も等しく死ぬということである。
[3]ここで「快楽」とは、俗にいう肉的または退廃的快楽のことではないことは、女に関する記述から理解することができる。
[4] この節の後には、人間が年老いて死にゆく様を比喩的な表現で詩っており、再度、若い日に神への信仰を持つ重要性を説いて締めくくっている。



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