2013年9月12日木曜日

ネット社会批判諭 Part.2  言論の自由は正義か?

昔、学生に「トンスル」って本当にあるんですか?って聞かれたことがある。何のことかと思って検索してみたら、酷い嘘が書かれていた。そんな酒はどこにも存在しない。ネット上で誰が書いたかも分からない嘘の情報が独り歩きして大多数の人に事実だと認識されてしまう良い例であった。

考えてみると、日本のネット事情は悲惨である。多くの嘘、デマの情報元は2chという巨大掲示板である。日本で最も浸透している掲示板がこのありさまである。2chのひろゆき氏は、「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」と言ったそうであるが、まさにその通りである。所謂、「兼韓」も「反日」もすべて、こういう嘘を嘘と見抜けない偏った人間が作り出す虚構の一つなのである。

今のネット社会は、この嘘に踊らされている人たちが少なからず占めている。つまり以前私が書いたような「虚構的な産業の一部として商品化してしまう人々」の他に、「虚構的な思想言論によって動かされる人々」というもう一つの愚民がネット構成員の大多数なのである。これが今のネット社会の問題点であり、愚かさである。そして、この「愚かさ」は時に「怖さ」となる。

歴史が証明しているように思想と言論は時として強力な洗脳装置になる。もし、ある者が、政治的、陰謀的目的をもってネット言論を統制できるとするならば、この「虚構的な思想言論によって動かされる人々」はどうなるのだろうか。嘘を嘘と見抜けない人たちは何の違和感なしに、言論を統制した側の言いなりになるのである。ネットはこのような洗脳装置の増幅器みたいなものである。これが「怖さ」である。そして、このようなことを実際に行う例はいくらでもあると考えられる。

リアルと乖離した嘘の情報がネットでは一人歩きするのは、ネットの匿名性と他人を卑下したり妬むことへの快楽のためである。つまり、我々が持つ非道徳的な背景が一因となる。そういった犯罪行為に歯止めを掛けるためには、少なくとも実名が分かる仕組みや書き込みに対する法的責任が明確になるシステムを作らないといけないのではないだろうか。そうでないと、結局、言論の自由を守れないのではないだろうか?物質世界で車の運転に免許が必要なように、思想世界ではネットの書き込みに免許制(或いは一定の条件)が必要ではないかというのが私の持論である。

この時代は、聖書的な解釈で言うと、「惑わす霊」が支配する世界である。何が真実で何が嘘なのか、「惑わす霊」は人々を惑わし、その分別は極めて難しい。インターネット上の情報がまさにそれである。この無節操な情報の氾濫から、身を守り、真実で価値のある情報だけを見出す訓練が必要である。ユビキタス的な情報の氾濫は、聖書の言う所の「洪水」である。しかし、人々は「飲み水が無くて困る」。それは、綺麗な水(真実の情報)だけでなく汚染水(嘘)も混ざっているためである。取捨選択のスキルこそ、今後のネット社会を生きる子供たちが身につけるべきリテラシーなのである。

最近、バカッターが話題になっている。若い時にバカなことをするのは、誰も経験があるだろうが、犯罪行為を自慢げに公開する事の愚かさが話題になっている。バイトに仕事させるからだとか、最近の若者は想像力がないとか、色んな意見があるだろうが、このテーマに関連して言うと、これもネットの作り出す虚構に踊らされた行為の顛末であると考えられる。

他人に自分を引き付けるくらいの才能や能力はない。しかし、ネット環境だけはすごく発展していていつでも自分を発信できる。このギャップの中で、唯一できてしまうようなバカなことを安直にアップして自慢する。そして、そのツケとして、同じようにネットの自由な言論によって無制限に非難され、その非難がさらに増幅されて、結局は当人の人生までもが奪われてしまう。

これがネットの怖さであり、愚かさである。言論の自由は正義ではない。なぜなら、言論の自由が守ろうとするのは虚構だからである。言論のフィルタリングと情報の氾濫から取捨選択することこそが正義である。










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