2012年10月17日水曜日

「宗教」にすがる偽善

日本に来て驚いたことの一つに、この国は宗教が無いようで、実は多種多様の宗教、従来の伝統的な宗教に加えて新興宗教が多いことに気づきました。人間が宗教を信じることについては、むしろ自然なことだし、個人の自由であり、神仏を信じて世のためになるのならそれは構わないことだと思います。しかし、私が見てきた宗教崇拝者達の問題は、宗教を職業(または金儲けの手段)とし、あたかも自分がその宗教の代理人であるかのごとく人を裁く偽善者的な人間の類です。これは全く持って他人のふんどしで相撲を取るような者であると思います。

私は、基督教者ですから聖書を読みますが、その聖書のすごいところは、そのような宗教的欺瞞、偽善的行いについて、旧約の時代にも新約の時代にも一貫して警告、警鐘を鳴らしているという点です。この戒めはどのような宗教的権威を持つ人間でも変わりなく適用されるという事です。神を信じると言いながら罪を重ねる宗教的欺瞞について何度も繰り返し厳しく戒めています。

つまり、説明を省略して結論から言いますと、いかなる人もいかなる人を罪に定めたりできないという事です。ということは、今現在、宗教崇拝者について避難しようとしている私もまた、同じ罪を犯していることになるわけです。罪に対する憎しみは外向きではなく、内向きに向かうべきなのです。つまり、他でもないズバリ自分自身が罪人であることを発見し悟るのが本当です。

しかしながら私も彼ら同様、自分の非を棚に上げて、ここに宗教的欺瞞者について書いているのは、あまりにも低レベルな宗教崇拝者たちの行いについてあきれており、人間的な感情としては許せないからです。特に、キリスト教を信じている者たちの中に、信じられないくらい非道徳的で、低質な人間がいることは、日本の基督教の恥です。

明確に定義すると、宗教崇拝者とは、「神を信じず宗教を信じる人」としましょう。そういう部類の人間に共通するのは、社会常識の欠如が目立ちます。なぜなら、宗教にすがって、自分を見失っているからでしょう。特に、宗教から得た知識や宗教を根拠とする正義をあたかも自分の力で考え出したかのように自慢したりしますが、しかし、それは自分が得た知識ではなく借り物の知識であり、借り物の正義です。宗教の教えを知っているからと言って、その人が義人になれるわけがない。宗教が正義だからといって、それを信じる者が正義になるわけではない。しかし、この部類の宗教崇拝者は宗教に属していれば自分は正義なんだと錯覚する。例えば、イエスの名を呪文のように唱えれば何でも許されると本気で思っている人たちです。

「わたしに向かって『主よ、主よ。』と言う者はみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れていけ。』」 マタイ8:21-22 (新改訳)

と聖書はイエスの言葉を通してはっきりと警告しております。宗教を隠れ蓑に欺瞞と偽善の罪を重ねる宗教崇拝者は、宗教を信仰などせずにも隣人を顧みる親切な人(親切なサマリア人(ルカ10:29-37))にはるかに劣るわけです。

宗教は自己欺瞞に陥るくらいなら信じない方がよい。










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